今日、世の中の価値基準として青春や若さ至上主義が幅を利かし、若作りやアンチエイジング志向(悪いことではないが)も盛んである。誰にでも青春は懐かしく思い返されるものだが、若者だけの特権ではないと年老いたものは言う。 サミュエル・ウルマンの「青春」という詩の『青春とは人生の或る期間を言うのではなく心の様相を言うのだ…年を重ねただけで人は老いない。理想を失う時に初めて老いがくる…』という詩句に触発された壮年や老年期の元気な実業家による「青春の会」もあるそうである。これも心理的には青春至上主義からきているように思える。 出典を忘れたが、107歳まで生きた清水寺管主大西良慶氏(1983年当時男性長寿日本一)は人生でいつが一番良かったかという質問に70歳代と答えている。
最近、周りを見回しても人生百年時代という言葉が現実味を帯びるようになってきた。人生百年の時代は人間の歴史始まって以来の出来事である。五木寛之氏によれば50~75歳あたりを白秋期と呼び、この時期は人生の収穫期であり、青春よりも価値のある人生の黄金期だということである。さまざまな経験も積み、社会的責任から自由になり、周囲を眺める余裕もあり、無駄なエネルギーを消費せずに、合理的に冷静に歩いていく時期である。 人を驚かせるような目立ったことをするのではなく、自分自身のために使って充実して生きることを勧めている(五木寛之 白秋期)。有名な詩人の北原白秋は16歳時に白秋の号を用い、57歳で死亡しているが、おそらく16歳時にはこの稿でいう白秋の意味を知って使ったのではないだろう。ちょうど明治になって青春に日本人共通のイメージが与えられたのと同様に人生百年時代になって日本人は白秋に新たなイメージを付加して意識する時代になってきたといっていいのではないだろうか。
アメリカの友人に英語で白秋に相当する言葉があるかと尋ねたが、autumnを人生の黄昏とするnegativeなイメージが一般的で、それ以外にはアメリカンドリームの達成者のように財を成し大きな家に住み孫に囲まれた生活ができることをautumnal/harvestというそうであるが、映画のゴッドファーザーの風景を思ってしまう。五木寛之氏の言う白秋期のイメージとは違う。人それぞれイメージは違うのかもしれないが私には身体に旬がある青春に対し心の旬としての白秋を思い浮かべる。とはいえ人生経験や知恵が黄金期を作るかと言えば私の場合、お恥ずかしい限りである。むしろ白秋期になれば自分の終着駅が視界に入り、死を意識することが青春との違いではないかと思う。その視点からみれば一瞬が貴重に思え、いろんなことがより美しく見え、違った意味も見えてくる。司馬遼太郎さんも「年をとると不易なものに安堵を覚えるようになりますね。自然が身にしみて美しいと思えるようになるとともに世々に生きた人たちに人としての魅力を一入感ずるようになります」と書いている。
概して人は自分の体感・経験でしかものを考えることはできないものである。仰ぎ見て遥かな人生を有する若者には死を自分の事として意識するような視点は実感としてない。劇作家のバーナード・ショーは人生の華というべき青春を浪費しているとして、『青春?若いやつらにはもったいないね』と言った。若さゆえの挫折・失敗は人生にはつきものである。経験と知恵を持ち、身体の旬の青春を過ごせるならそれは最高の幸福であろう。しかし若者にノーベル文学賞者の知性を求めるのは酷というものである。この言葉からすればバーナード・ショーも青春至上主義にとらわれているように思える。
日本人が秋ばかりでなく白秋という言葉を持ったことは幸せなことである。もし西洋が白秋という言葉を持っていたなら若者には「青春を謳歌したまえ、そして青春よりもっといい黄金期の白秋がある。そのためにこれからの日々を無駄にしないで過ごしなさい」と言ったかもしれない。
転じて世界では社会の分断・戦争・災害・食料/エネルギー危機・金融不安など人間を取り巻くシステムそのものが劣化・崩壊していくようで未来の姿は全く見えない。そのうち自分達もそれに覆われてしまいそうな不安な気分もあるが、個人的には残り少ない自分の白秋期を楽しみたいと思うばかりである。そのキーワードはソロ立ち、ほどよい孤独、こころの自由であろうかと思われる。