先日友人と55年前の学生時代の旅をたどる旅をした。同じ風景に接したはずなのに記憶にないものもありそれぞれの心に残っていた風景は違っていた。私の一番の目的は北大植物園のあのハルニレの樹に再会することであった(大阪小児科医会誌2020年 樹木への旅 ニレ)。55年を経て幹に手を触れ当時を偲んだ。樹は更に55年の風雪を蓄積し、年輪の分だけ幹を太くしたかもしれないが私たちは55年の月日を過ごし樹とは反対に背丈は縮んでいた。ニレの都といわれる札幌の街で、その木々たちに負けることなく大通り公園の真ん中に植えられていたケヤキの大木が両側の道に届かんばかりに大きく枝を広げていた。エルガーの「威風堂々」の音楽を聴く思いがした。ケヤキは堂々の樹形を保ち、箒状に広がった美しい樹形は遠くからみてもそれと判る。春の新緑も葉を落とした冬の樹形も美しい。昔からケヤキは好まれていたのであろう。ケヤキは古名で槻(ツキ)と呼ばれていて万葉集にも7首あり古事記にも記載がある(木下武史 万葉植物文化誌)。ヤマト朝廷ができる頃槻の大木のもとに祭政空間が設けられ、この木への信奉が国家建設の原点だったという(日本古代学者・辰巳和弘)。槻の木の広場は、神聖で清められた場所と認識され、誓約やそれに伴う饗宴などが繰り返し行われた。日本書紀には大化の改新のきっかけとなった中大兄皇子と中臣鎌足が蹴鞠を通じて出会ったことや、7世紀後半には東北地方の蝦夷や南九州の隼人らを招いた供宴が行われたことが記されている。用明天皇が宮と定めた磐余池辺双槻宮 (いわれいけべのなみつきのみや )や斉明天皇が多武峰に築かせた両槻宮(ふたつきのみや)など、槻の木の存在を思わせる宮の名前が付けられている。このことからすれば巨樹を触るほどに国家と人々の距離が近かったということであり、美しく堂々としたケヤキは古代においては近代の教会や荘厳な建築物と同様、権威の後ろ盾と同じ役目があったのだろうと思われる。
冬に行われる関東地方の実業団駅伝の中継を見ていて大空を背景に遠くに箒のように枝を広げた木が映っていると、あれはケヤキだなと思う。ケヤキは広々とした平地の空間を引き締め風景を作る樹である。そして大木になる樹である。清水の舞台は樹齢数百年のケヤキ139本が使われているという。関東の武蔵野にケヤキの大木が多く残るのは、徳川幕府が橋脚、船材、建材として推奨したことからよく植えられ、さらに風よけの屋敷林として植栽に勤しんだためだという。屋敷のケヤキの大木は家の格を上げるのに役立ったようである。ケヤキのある風景は実に日本的な気がする。逆に言えば小さいころから見続けてなじんだ風景は美意識として自己と同化してしまうのではないだろうか。味覚は郷愁であるというように視覚もまた遺伝子のエピジェネテックスに関与しているに違いない。文学的に表現すれば『風景というものは、永い年月、いろんな人から眺められ形容せられ、謂わば、人間の眼で舐められ軟化し、人間に飼われてなついてしまって・・・』(太宰治 津軽)ということになるだろう。平素、恩恵を受けている風景を意識することはないものだが、生還を期すことのない出征していった若者たちがなんのために死ぬのかという自問の中で自分にその死の意味を「自分を育ててくれた故郷の山河、父母や弟妹、万葉集や芭蕉や蕪村、桂離宮や飛騨の合唱部落、それらを生んだ風土や歴史。自分の死によってそれらを守ることができる」と言い聞かせたという(戦艦大和の最後、それから千秋耿一郎)。郷土の山河や風土とはその人に刻まれた風景なのである。その典型的な風景をケヤキは作ってきた。高度成長期、東京の都市開発で人間の都合でケヤキの木が次々に切られていく時代があった。人々の心に染み付いた風景や愛着を作ったケヤキの大木が切られることはケヤキを愛する人たちには自分の身を切られる思いだったであろう。井上靖はそのことを憂いて「欅の木」という本を書いている。本の中で作者は一人の老人に語らせている。
『大陸に来て自分は初めて日本の自然を美しいと思った。大陸には欅に似た木はない。欅の木は日本だけのものかもしれないと思う。』これは小説とも随筆ともつかぬ形であり、社会への作者の発言だという。書かれたのは、昭和45年 作者は63歳、私は20歳で医学部2回生であった。当時の私は樹木に興味のなかったので最近までこの本のことは知らなかった。エコロジーの時代になった今日、社会の樹木に対する気持ちは少しは変わったかもしれない。
私の勤める保育園の前の街路樹にはケヤキの木が植えられている。ケヤキは電線にかからぬように芯を止められ、毎年秋になると落ち葉が落ちる前に枝を刈り取られる。樹形はけやきとは似ても似つかぬこぶだらけの痛々しい木になっている。コブから生えた枝葉の姿はザンバラ髪のおよそすがすがしいケヤキの姿ではない。 何年か前、千葉で台風後に倒木による停電が長引き、樹木が悪者にされてしまったことがある。昔と比べ強大になった最近の台風の下では家の格を上げた大木も家屋には脅威になっているかもしれない。条件が変われば価値も変わるということである。街路樹には街路樹としての役割があり、広場に植えられてその木の持つ遺伝子に従い自由に堂々とした本来の姿を期待するのは間違いであろうが、美意識を育てるのが大事であることを思えば、子どもたちには小さいころから美しい樹形の本物のケヤキを見てほしいなと思う。大木や巨樹に触れながら育つということは子どもにとって幸せなことである。樹木は時間を旅してきた。人の短い人生をはるかに超える年月に対する畏敬の念や堂々たる威厳を自然に体得できるからである。また一方街路樹のケヤキを見ていると、子どもの育ちも人が手を加えすぎると本来持っているいい素質を阻害することになってしまうことを教えられる思いがする。
上記の井上靖のように、作家というものは本質を観る目が鋭く、それゆえに樹に対しても心から愛する度合いが大きいのかもしれない。いろんな宗教の背後にある親神である大自然の力を感得した作家の芹沢光治郎は90歳の最晩年に書いた「神の微笑」という本の中で樹木でも多年心をそそげば、話しあえるようになるという、老欅と対話した不思議な経験を書いている。司馬遼太郎さんも『いま日本中の樹霊が泣いているような気がする。・・神道という名もなかった日本の固有信仰というものは杜をあがめることであった。・・私はいわゆる神道に何の関心もないが、しかし人間の暮らしから樹霊の連り添いと樹霊への崇敬の心をうしなったときに、人間の精神がいかに荒涼としてくるかをうすうす気づいていて、おびえるような気持でいる。』(歴史の世界から 樹霊について)と書いている。 現代の人間は自然から離れてしまったが、古代の人のように樹霊を感じながら生きる方が幸せなのかもしれない。樹霊を文学や人間の心の想像力ばかりに帰するわけにはいかないかもしれない。現代科学は動物とは違う道を進化してきた植物の持つ感受性を明らかにしている。植物展の解説・説明書きには次のように記されていた。『植物の五感植物は光合成のおかげで動く必要がなくなったが、日々変化する周囲の環境を敏感に感じとるための様々な感覚を必要としている。動物のような眼や耳、鼻と言った感覚器官はもたないが、個々の細胞や身体全体が、光を感じる視覚、音や振動を感じる聴覚・触覚、化学物質を感じとる嗅覚・味覚をはじめとして、温度、重力、時間感覚などをもち、敏感に環境変化を感じ取ることができ、その感覚は人間に匹敵するものも多い』。フィトンチィドや地下の化学物質を通して植物同士のコミュニケーションもあるそうである。
人の寿命とは違うスケールで何百年も時間を旅してきた大木を見上げると、生命力に包み込まれるような感じで気持ちが落ち着く。私は近郊で有名な野間の大ケヤキも見に行った。塩見先生に教えられて、菅山寺の大ケヤキを見に行ったことがある。湖北の山中にある菅山寺は奈良時代以来の由緒ある古刹である。今でいうなら大学のような最先端の学問を学ぶ場所であったろうが、今は衰退し無住の寺になっている。この寺の山門の左右には、菅原道真の御手植えと伝えられる樹齢千余年のケヤキがそびえていることが有名であった。私が訪れたとき右側のケヤキが倒れていた。大阪の関空が水浸しになったあの台風21号の風で倒れたのだという。寺を守る里人は嘆き悲しむより樹が天寿を全うしたのだと思ったそうである。そう思える里人たちも樹霊とともに生きてきたのであろう。樹に人格を与えるならば一休禅師の「拝借申すこの命お返し申す今月今日」や良寛の「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候 死ぬ時節には死ぬがよく候」の言葉と同じ精神を現わしているようである。現代版で医師の鎌田實氏は PPH(ピンピンヒラリ)という言葉を造語して従来からいわれているPPK(ピンピンコロリ)でコロリと逝くよりは、老いの中で平素から自らソロ立ちをし、時が来れば「ヒラリ」と自分でこの世からあの世へ舞えるくらいの強い意志を持って生きることを勧めている(ちょうどいい孤独 鎌田實)。そうありたいものだと思う。