大阪の市街地でまとまった緑地としては大阪城公園、長居植物園と大川沿いがあげられる。江戸期の大名屋敷が多く残され緑地空間の多い歴史的好条件を持った東京に比べ、緑の少ない大阪はその点で格が落ちると言われても仕方がない。「青葉城恋唄」で杜の都と歌われた仙台はそれだけで街のイメージが上がった感がある。先進国の主要都市では市街地の真ん中に緑を増やし、「森」をつくるのがトレンドになっているという。緑化は都市の風景の荒廃を修復するだけでなく、人心の荒廃を防ぎ、防犯効果を高める側面がある。司馬遼太郎さんはすでに45年も前に樹木の大切さを「日本人は古来、杜を神聖な場所として大切にしてきた。神社の境内は樹木でうずめ、鬱然たる杜をつくり、杜に神が天降りするという信仰を継承してきた。・・・人間の心を安らかにするのは樹木しかない。」と書いている(街道をゆく9信州佐久平みち)。大阪駅の北側にうめきた公園と名付けられる大きな緑地公園が来年(2025年)出来あがることになっているそうである。植えられた木々がしっかりと土をつかみ人手を離れ、それぞれが独立した木としてさらに大きく育ち深々とした森のような空間を作った姿を見ることのできるのは数十年先であろうから私は初期のころだけしか見ることはできないだろうがこれから先の大阪の為にはうれしいことである。
私の山歩きの主な目的は森の中を歩くことであるが、その中でも私が好むのは渓流沿いの山道である。自然林が多く渓流の音にも澄み切った渓流の流れにも心が癒される。天気が悪かったり山に行く時間がなかったりすれば近くの大川沿いを歩く。大川は旧淀川と呼ばれ、新淀川が開削される以前本来はこちらが本流であった。大川にかかっている源八橋の説明板には「橋がつけられる昭和11年までは渡しが唯一の交通手段であった。右岸は与力などの役宅が並び、左岸はのどかな農村地帯であったという。梅や桜の名所であり渡しは大変賑わったという。・・・『源八をわたりてうめのあるじかな 蕪村』」とある。また天満橋近くの説明板には「三十石船は八軒家と京・伏見の間、約45kmを上り1日下り半日で運行し、江戸時代を通して貨客輸送の中心を占めた」とある。江戸時代の大川の周りは人々の賑わいと美しい風景があったであろうことは容易に想像される。この説明板のある八軒屋の船着き場から維新前夜、英傑と言われていた十五代将軍徳川慶喜が夜陰に紛れ、味方を置き去りにして大阪城から大阪湾にいる開陽丸に逃げたという史実がある。この後、歴史は大きく転回する。多くの歴史を蔵する大川はものを思うに不足はない。それとは別に洪水などの水害が深刻だったらしい。河川管理の対策として現在の毛馬の水門が完成したのは昭和49年という。私の大学卒業の年であり、私にとってはただそれだけで親しみがわく。
大川にかかる源八橋を歩数ではかってみると川幅は80mぐらいである。水深は2-3mで毛馬の水門が海抜5mであり、大阪湾まで13kmあまりを川岸いっぱいにゆったりと流れている。旅行で見たセーヌ川、ラインやドナウなどのヨーロッパの平原をゆったり流れる河に似て水の流れに豊かさを感じる。河川敷のある川や浅い川や川幅のない川はそういう感じはしないだろう。東京のお茶の水あたりでみる神田川のように魚影がみられたらもっと豊かな感じがするだろうが、大川で釣り糸を垂れている人に聞くと大きな鯉が釣れるのだという。釣った鯉はまたリリースするという。その他ジョギングする人も多く、市民にいろんな楽しみを与えてくれている。大学のボート部の細長いボートがスイスイと穏やかな水面を走っている。いかにも都会派の若者が青春を謳歌しているという感じである。
桜や山河の風景に美のみならず人生を感じるのは日本人のDNAに組み込まれた習性かあるいは普遍的に年齢がそうさせるのか分からない。田舎から出てきた私は入学した頃そんなハイカラなクラブがあることも知らなかったし知ったとしても当時の自分には縁遠いものと感じただろう。ちなみに私が入ったクラブは体力的にハードではない医学部の山岳会と謡曲のクラブだった。卒後選んだ小児血液・腫瘍の専門分野やその中で出会った子どもたち、友人、さらに現在の職場もそのクラブの人間関係の中から生じている。私自身は出会った人の総和であるという。
人とのつながりでできている人生を思えばボート部のようなクラブに入っていたらまた別の違った人生だっただろうなと思う。今までの人生を否定するわけではないが、人が過去の人生の分岐点を振り返り、あったかもしれない別の人生を思い浮かべる時、そこには幾ばくかの悔悟や感傷が含まれる。おそらく誰でも完璧な人生なんてないからである。でもほかの道をたどったとしても幸福だったかはわからない。違ったパートナーと出会い違った子どもたちが生まれる。一つの組み合わせが違ったものになればその違いは次々と外に波紋のように広く波及してゆく。アマゾン川の1匹の蝶の羽ばたきが、巡り巡ってアメリカ・テキサス州のハリケーンの原因となりうるかもしれないという例えのように、初期条件の僅かな違いにより偶然に導かれた因果関係は「バタフライエフェクト」としてNHKで放映される歴史的な映像と哀愁を帯びドラマティックなメロディの美しい音楽と相俟って広く認知されるようになった。しかしこの社会では名もない平凡な人間一人一人が知らないうちに蝶の羽ばたきの役目を果たしていると考えられなくもない。この世はありえたかもしれない可能性のシャボン玉が空気の分子のように人々の回りに満ち満ちているようなものである。私たちはそのような時空に生きている。そして今ある人生は無限の可能性の中でたった一度きりである。人生は無常であると仏教哲学は教える。自己流に解釈すれば無数の偶然の何乗もの掛け算でできている偶然性の一般解が無常の表現型なのかもしれない。自分の過去を思う時、小説の中に出てきた妙に心惹かれた文章が沸き上がるように浮かんでくる。「人は、変えられるのは未来だけだと思い込んでいる。だけど、実際は、未来は常に過去を変えているんです。変えられるともいえるし、変わってしまうともいえる」(平野啓一郎 マチネの終わりに)。個人の現在が過去を常に変容させているという視点は新鮮であり、自分の幼い頃の母の死を思えば確かにそのような気がする。悲しみもまた豊かさなのである。作家の有吉珠絵氏は過去にとらわれ悩む人に「過去は、今を生きやすいように自由に解釈すればいいというだけ。解釈によって過去の意味合いが変わり、解放されることもある」と言う。過去への思いも気持ちの余裕と歳月が必要である。歳を重ねる意味はそこにあるのかもしれない。
歳をとると朝早く目が覚める。その対策に、ある時から寝る時間を一時間ほど遅らせるために夜、大川沿いを歩くことにした。夜見る大川は黒い河であった。黒さは過去から続く多くの人々の情念を溶かし込んだ色に似ているかのようでもあり、街の明かりが水面に揺らめき、それがますます河の黒さを強調している。川にかかった鉄橋を窓の光を連ねて電車が渡る。夜汽車は少年のころのノスタルジーを惹起する。私はそのような光景を美しく思い、黒い河見るのが好きになり季節を問わず毎晩のように散歩するようになった。黒い河を見ていると心が落ち着くが、その静かな喜びは森の中を歩く時に働く神経回路と同じような気がする。黒い河には空海の詩句が最もふさわしい。「生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く、死に死に死に死んで死の終りに冥し」(秘蔵法鑰)。自分はどこから生まれ、どこへ死んでいくのか、生まれるとは何か、死とは何かという一大事を、人はなおざりにして何も考えずに人生をおくっている。方丈記にも「不知(しらず)、生まれ死ぬる人、何方(いづかた)より来りて、何方(いづかた)へか去る」とある。画家のゴーギャンも晩年「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」という命題の絵を描いている。世の東西を問わず人は歳をとったら誰にも答えられない問いを自問する。
人はやがて死ぬことを意識して生きている。しかし人間を一瞬にひねりつぶすことのできる宇宙も幾多の情報を一瞬に処理するAIもそのことを意識はしない。そこに人間の尊厳があるのだという。自問し、教化のために詩句を作り、絵を描いた先賢達もみんな、今を愛おしみ生きようといい聞かせることに答えを収束させていったであろう。それ以外にいい答えがあろうはずがない。未来が過去を変えるという小説家・平野啓一郎氏の言葉を勝手に演繹すれば、死という未来からから見ると過去たる現在は一瞬一瞬が木漏れ日のきらめくような美しさにあふれている時間の連続であり、そのことに気づき、「時よ止まれ」と言うほどに今を愛おしみ生きることによって価値あるものに変容するといってもいいのかもしれない。逆説的であるが死は生を豊かにするものなのである。夜の大川は方丈記の心地よい一節を心で誦しながら自然と湧き上がってくる瞑想に身を任せつつゆっくり歩くのがいい。自分が無常の時空の中を歩いていて、そのうちいつかその中に溶け込んで同化していくのだという思いに包まれ、静かな気持ちにさせてくれるのである。 この樹木への旅もそろそろ終わりに近づいてきたようである。