6月の梅雨の時分はアジサイの季節である。私がよく訪れる長居植物園や神戸の森林植物園ではあじさい祭りと称して多くの人を集めている。矢田寺など梅雨時の古寺に彩りを添えるため、観光の目玉にもなるところも多くなった。『万葉集にも謳われているこの花は日本原産であり、それを世界に知らしめたのはシーボルトであり、愛人のお滝さんに由来するHydrangea Otaksa という学名をつけて発表したということはよく知られている』(万葉植物文化誌 木下武司)。『16~19世紀のはじめまでヨーロッパは博物学の冒険時代だった。あたかも大航海時代、航海家たちがあたらしい陸地を発見して拍手されたのと似ている』(街道をゆく35 オランダ紀行 司馬遼太郎)。その博物学が最高の学問・科学であった時代にシーボルトもいた。アジサイばかりでなく多くの日本の動植物や当時未知の国であった日本を本にして西洋社会に知らしめ、名声を博している。そればかりではなく医学を通じて蘭学を広めたシーボルトの果たした役割を司馬遼太郎さんは高く評価している。『それまでの漢方医学は中国の歴史と同様古代にどっぷりと居座ったままで近代がなかった。
物を確かに物と見るという精神にとぼしく、一個の観念論的哲学を通して見るため西洋医学とはまったく思想体系も異にしていた』(「胡蝶の夢」 司馬遼太郎)。日本にとって蘭学とは事実を直視し、探求する科学との出会いであった。それを司馬遼太郎さんは暗箱から差し込む光にたとえた。そして、それは日本人の意識の変容を通して明治維新へのエネルギーになっていく。日本の医学史を書くことで西欧風の現実直視の思考法が歴史を切り裂いてゆくのを見た司馬遼太郎さんは『日本の歴史上の最大の客人はシーボルトだったんじゃないかと思いますね』(司馬遼太郎の日本史探訪)とまで述べている。日本における西洋医学の発展史をマクロ的に見れば『シーボルトから医術の破片を学んだ先人たちの学問や技術が、その後正式に医学教師として招聘されたポンぺの医学校の修業者の進出によってたちまち旧式化する。そのポンぺ学校の修業者の医学も、明治二年のドイツ医学の導入によって一挙に過去のものになってしまう』(司馬遼太郎 歴史の世界から)。そのドイツ医学も戦後アメリカ医学に取って代わられる。小児血液・腫瘍分野の臨床の現役を引退して20年近くになるが、当時のパイオニア的治療も今や一般的になった。新たな免疫治療も出てきている。ミクロの目で見ても、講演を聞きながら私もまた周回遅れの過去の中にいることを実感する。医学は常に発展途上なのである。その歴史を思えば、今は延々と続くその大きな流れの中に医学の徒として存在しえたことを幸いに思うだけである。
現在のようにプラスチックや化学工業製品などない時代、『人は身の回りの植物に依存して生きてきた。それぞれの民族にはそれぞれの、植物に寄り添った文化の伝統がある。植物を食べ、植物によって病を癒し、植物で住居や道具を作り、植物を着て、植物の美しさに癒され、また、愛でてきた』(植物の和名・漢名と伝統文化 寺井泰明)。植物は医薬品(本草)として重要であった。従って「本草学は本来医学の学問であった」(司馬遼太郎街道をゆく16叡山の諸道)のである。このことからすればシーボルトの植物に対する熱意も単に新種を発見し世間で学問的な名声を得る為ばかりでなく、医者でもあるがゆえに植物の持つ医薬品や原材料の可能性にその目的があったのではないだろうか。木下武司著の万葉植物文化誌によれば『万葉植物の大半は薬用・食用・工芸用などなんらかの実用的価値のあることがわかる』という。薬学博士でもある著者の目から見れば、『春の野にスミレを摘んだ山部赤人は、持病の薬を集めていた』ということである。居酒屋で「刺身のツマ」に青じその代わりに出されたアジサイを食べたことによりに食中毒の症状が出たという記事を新聞で読んだことがある。アジサイも、薬用に関係する何らかの生体作用を持っていたのであろうか。著者に尋ねたところアジサイの実用的側面は万葉時代、上流階級の人たちの観賞用であったということであった。植物学も医学や科学の発展史と同様、変わっていくのは同様である。本草学から新種発見競争の時代を経てダーウィンの進化論の後、植物種の分化・進化の系統を明らかにする方向に変わっていく。ダーウインの前に亡くなっていたシーボルトは進化論を知るはずもなかったのである。だからと言ってその価値が下がるわけでもない。
ともかくシーボルト以来、西洋で愛され改良された園芸種の西洋アジサイが今日本のあちこちで愛され、人々の目を楽しませている。しかし、アジサイを最も愛したのはHydrangea Otaksaと名前まで付けたシーボルトであったかもしれない。シーボルト事件で日本を追放された後、オランダで見るアジサイは日本や日本人の妻子を偲ぶのに役立ったに違いない。私は、日本から持ち帰ったトチの実から大きく育った「シーボルトのトチの木」を見るためにライデン大学の植物園を訪れたことがある(大阪小児科医会会誌 トチの木の物語 2014年)。そのとき、花の季節ではなかったが、シーボルトの銅像はアジサイで囲まれていた。故人の思いをおもんばかり後世の人が植えたのであろう。あるいは遺言だったのかもしれない。
さて、私にとってのアジサイのことである。山で見るヤブツバキのように特に好きというわけではないが、梅雨のころにはあじさい祭りの宣伝に誘われてよく訪れることがある。しかし個人的には、観賞というよりメンタルな面でずいぶんお世話になっているのである。 ○○〇〇〇/男たらしが/あじさいの/花陰に来て/いつまで泣くぞ/ これは中学時代国語の教師のY先生が授業中に教えてくれた短歌である。思春期の感じやすい時期にはこのような詩に校舎の裏庭に咲いていたアジサイの後ろにたたずむ乙女の情景を思い浮かべ、キュンと反応するものである。学んだはずの教科書の数多くの文字たちが跡形もなく消え失せているのに60年も経ってもこの言葉の文字だけが形をとどめている。でも初句の○○〇〇〇が何だったかは覚えがない。初句は何だったのだろうか。訊ねるべき先生はもうとっくにいない。あの時のクラス仲間は誰か覚えているだろうか。黒髪の /うらわかき /名にし負う /名も高き /おさげ結う /人も知る /匂い立つ /おさげ髪 /等々 禅の公案のようにいろんな五文字の初句を入れ込み、歌をそらんじて60年が過ぎた。そのたびにそのころの中学校にいた高嶺の花のマドンナや、おさげ髪の女生徒などの顔が浮かんできて私をその時代に引き戻してくれるのである。有名な人の短歌なのか、素人の同人誌に乗っていた歌なのか、国語の先生の自作の歌だったのか私は知らない。ネットでアジサイの入った短歌を探して見てみるが出てこない。だから多分、有名な歌人の短歌ではないのであろう。いい歌なのか専門家に聞いてみたい気がするが、私の中では、初句を探して反芻するうちに流行歌のメロディーのようにこびりついていて、愁いを含んだアジサイとの取り合わせにぴったりの青春の香りに満ちた短歌であるように思えるのである。
60年を経て、みんな私と同じだけ歳を重ねているだろうが、私の中では当時のセーラー服姿の女生徒のままである。司馬遼太郎さんはコドモの部分を持ち続けることの大切さを次のように書いている。『人間はいくつになっても、精神のなかに豊かなコドモを胎蔵していなければならない。でなければ、精神のなかになんの楽しみもうまれないはずである。いい音楽を聴いて感動するのはじぶんのなかのオトナの部分ではなく、コドモの部分である。・・・恋をするのも、他者に偉大さを感ずるのもコドモの部分である。・・・人は終生、その精神のなかにコドモを持ち続けている。ただし、よほど大切に育てないと、年配になって消えてしまう』(風塵抄)。いずれにしても初句を欠いた短歌ゆえに60年間私のコドモの部分に刺激を与え続けてくれたのである。一方、山歩きをするようになってから同じアジサイでも山に自生するコアジサイを知り、それが好きになった。街で見かけることはない。山では半日陰に生え、花も葉も平素は目立たない地味な落葉低木であるが、秋になると主役になる。山道や山腹を一面黄色で染める美しさは山の秋の風景の基調を作り出している。私はアジサイの花よりもこのコアジサイの作る黄葉の風景を愛していて、毎年秋には山歩きの楽しみを倍増してもらっている。心身ともにアジサイに感謝である。