2023年は司馬遼太郎生誕100年になるということである。その記念の企画として「好きな司馬作品」アンケートでは「街道をゆく」が4位になっている。私は何度も繰り返し読み、その世界に浸り飽きることはなかった。司馬さんが書き残してくれていなかったら日本各地の歴史風土の風景はよほど貧相なものであったかもしれない。司馬さんは母親の実家のある竹ノ内で子ども時代を過ごしたが、100年前、村の子どもたちの行動範囲は隣村まで及ぶことはなかったという。そのころの子どもたちの情報量というものの幼さが村の上方にあるカミの池の話で手に取るように書かれている。『私は真夏にはさんざんこの池で泳いだ。・・『「海ちゅうのは、デライけ?」・・「カミの池よりデライけ」・・「デライ。むこうが見えん」というと子供たちは大笑いし、そんなアホな池があるもんけ、と口々にののしり、私は大ウソつきになってしまった』(街道をゆく1竹内街道)。それから約100年後の今日、世界は狭くなり、インターネットで情報はたやすく手に入るようになったが、俗悪・虚実入り混じった今の情報社会から眺めるとその無垢さ加減がむしろ愛おしくなる。無垢の背後には畏敬や感動の深い世界が広がっていたであろうことを思うからである。
竹ノ内街道から分岐して河内へ抜ける道がもう一つある。そのカミの池を竹内街道から左へ分岐していく道が平石峠を通り高貴寺へ向かう道である。竹ノ内街道のような幹線道ではない。この道は大阪府教育委員会発行の歴史の道調査報告書『長尾街道・竹内街道』によれば「竹内街道の間道(抜け道)であり平石嶺道と呼ばれていた。平石嶺道は大正11年には里道から府道へ編入され、現在の704号が旧道とほぼ重なる。鎌倉初期からの平岩氏の居城があり、『太平記』にも記載がある。南北朝の内乱時には、南朝方の拠点として攻防戦の舞台となった」とある。従って今では山歩きにはなじみの深い葛城・金剛の縦走路であるダイヤモンドトレイルと十文字に交わる。司馬遼太郎さんが「残したい日本というアンケート」で街道として竹ノ内街道を挙げているが残したい峠として挙げているのはその竹ノ内街道が大和から河内へ越える峠である竹ノ内峠ではなく河内・大和の境いの高貴寺と平石峠を挙げているのである(司馬遼太郎 街道をゆく夜話)。司馬遼太郎さんの残したい風景と書いてある峠ということで4つの方向から7回ほど訪れたが、平石峠は杉やヒノキの植林に囲まれた何の変哲もないどこにでもある峠である。私はそのことをなぜだろうといつも不思議に思っていた。昭和30年後半から40年代にかけて植林が行われたそうであり、司馬遼太郎さんの子どもの時代は自然林に囲まれていたのかもしれない。私が司馬遼太郎さんの美意識のレベルにたどり着けないのか、あるいは少年期の体験が詩のような美しい思い出として峠に付箋のように埋め込まれているのだろうか。平石峠については著書の中で司馬さんの愛する竹内の風景描写のような文章に出会っていないのでその理由が知りたいのだがもはや尋ねることもできない。
碑は訪れる人も少ないのか周りに草が生い茂っていた。私は持っていたストックで草を払い上記の碑文を読んだが、「詩碑などないほうがよく、あっても草のかげにかくれてめだたないほうがいい」(街道をゆく17島原・天草の諸道)」という文章からすれば司馬さんの思いのままにそれを嘆く必要はないのかもしれない。
司馬遼太郎さんの碑について竹ノ内街道資料館学芸員に尋ねると「明治9年国道になったとき開削工事で元の姿は失われた。1985年に完成(1971年開始)さらに10m掘り下げられた。この完成を記念して当麻町の有志が司馬遼太郎さんに揮毫してもらい石碑を立てた」ということであった。自分が揮毫した碑が立っている竹ノ内峠を挙げずに平石峠を挙げている司馬さんの気持ちが分かるような文章がある。司馬遼太郎さんは「国しのびの大和路」という小文の中で竹内街道沿いの村に住んでいた少年のころとの変貌を嘆き、次のように書いている。『文明の感覚については、私どもが住む国は未成熟だというほかはない。たれもが大和は人類の宝石だと思いつつ、怪物のような開発のエネルギーにゆだねきってしまっている。私はおそろしくて正視する気になれないが、大和盆地の現状は、もはや宝石の結晶性をうしないつつあるのではないか。』(歴史の世界から 司馬遼太郎)。
国家が(土木)人を養うために自然を改変し続けた。高度成長とは裏から見ればそういう時代だった。「街道をゆく」が書かれたのが1971年でありそのころ竹ノ内峠の開削が始まっている。「街道をゆく」の中でも竹ノ内街道の記述は乗っていた車が止まったということでカミの池で終わっていてその少し先の竹ノ内峠については書かれていない。司馬さんの中では面影を失った竹ノ内峠の代役として街道筋の違う隣の平石峠を挙げたのではないだろうか。そう思えた日から私だけが司馬さんの思いを知ったような気がして平石峠は私の聖地になった。俵万智さんのサラダ記念日の短歌をもじった気分で「司馬さんが残したい峠と言ったから平石峠は私の聖地」と一人つぶやくのである。上野 誠氏は著書「教会と千歳飴」の中で聖地について「日本の多神教は、とめどもなく神が生まれ続ける宗教である。人も山川草木も、神であるわけだから、この日本は神々で満ちあふれる世界なのである。・・いかなる土地も聖地になり得ることになる。こういう社会で大切なのは、神仏に対する知識や教義などではない。その場を尊いと思う感性そのものである。尊いと思った瞬間に、いかなる土地も聖地になるのである。日本人にとって巡礼とは、そういう神仏たちを路傍に発見することにあった、と思う。旅先で神聖を感じたところが、その人にとっては、聖地なのである」と書いている。今や映画の撮影場面やアニメの制作場所など聖地巡礼が流行っているようである。自分の心の片隅に他から侵されない聖域を持つことと同様、外の世界に自分の聖地を持つことは個人の幸福にとってありがたいことである。
平石峠へ向かう道を上記のカミの池を少し過ぎたあたり、山腹の南斜面に三ツ塚古墳がある。2002年に南阪奈高速道路が作られた時、発掘調査がなされ詳細な報告書が作られている(葛城の考古学 松田真一 編)。調査から古墳に葬られたのは平城京に勤めた中級官人や当時としては最先端の技術をもつ古墳を作る石工の人々だったことが分かる。石材の産地であった二上山には古代の石切り跡が残っている。従って古墳近隣の葛城山麓の集落は知識階級を生み続けた人々が代々住んでいた文化の高い地域でもあったのである。遣唐使として渡った人の墓から唐王朝から付与された身分の象徴でもある革製のポシェットも出てきている。私が心惹かれるのは当麻寺側の尾根で矢じりや埴輪を拾って古代史に目覚めていった少年時代の司馬さんがカミの池近くにあったこの三ッ塚古墳を知らなかっただろうということである。発掘調査は司馬さんが亡くなってしまってからのことである。古墳を訪れたとき、司馬さんがそのことを知っていたら壮大な物語を書いてくれただろうにと残念に思った。
年に一回ほど訪れる私の聖地・平石峠は司馬遼太郎さんからの私へのプレゼントだと秘かに思っている。でも私だけではもったいない気もしなくはない。近鉄磐城駅―竹ノ内街道―カミの池―三塚古墳―平石峠―高貴寺―磐船神社―平石城址―近つ飛鳥博物館のコースは司馬さんを偲びつつ見どころの多いハイキングコースである。有名な山の辺の道にも引けを取らないのではないかと思う。自治体も少し案内板など手を入れて、司馬遼太郎の愛した(あるいは推薦の)大和―河内ハイキングコースとかいうキャッチフレーズで宣伝したら司馬遼太郎ファンのみならず一般の人も訪れる人は多いのではないだろうか。勝手に名前を使われるのをどう思うかわからないが残したい街道・峠という司馬遼太郎さんの意に沿うことではないだろうか。