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マリア保育研究所|

第二十三話  「シャクナゲ」 









 

シャクナゲ

















 
 

獲得免疫系がウイルスなど他者を認識するには一度感作されることが必要である。幼児が周りの大人に教えてもらい、認知の幅を広げていくように、我々も審美眼も含め、すべての物事の見方はどこかで教えてもらっているのであって勝手に一人で判るというものではないようである。コンサートに行っても耳になじんだ曲の方が楽しめるし、絵画にしても抽象画やモディリアーニのデフォルメした絵なども美が既に先人に発見されているのである。このように我々がものを判ったり、楽しむには何かしらのものが一度脳に定着してくれる必要がある。脳における感作と言っていいのかもしれない。

 

司馬遼太郎さんによると、個人や民族が美に気づくのも文化交流によってもたらされるという。『長安の詩人たちの西域好きというのは「唐詩選」によって我々に遺伝されている。日本が国家をあげて中国文化を受容したのは中国における唐の時代で、唐文化がそのまま日本に凍結され、長安の詩情は、今の中国人以上に日本人にうけつがれている』(西域ゆく井上靖・司馬遼太郎)。


正倉院にシルクロードを経てきたその文化の精粋が大切に保管され毎年展覧会が開かれているのも日本人の記憶維持に役立っているのかもしれない。文化大革命の最中、中国で学校教育を受けた人の話を聞いたことがある。文革そのものが文字通り、文化に対する革命であり(実体は文革に名を借りた権力闘争であったが)、唐詩や西域の教育などあるはずもなく、日本人の持つロマンに満ちた西域も中国人にとっては辺境の一部という認識しかないそうである。どちらの認識が正しく、幸福かは別にしても、日本人は教育という感作により、幻想かもしれないが中国人とはかけ離れた認識を持っているのかもしれない。




 

同様なことが蝶についてもいえる。蝶など古代においては人々の身近に一杯飛び回っていたと思われるが、『万葉人が蝶を詠まず、蝶が点在する風景も詠まなかったというのは、即断はできないとしても、当時の日本人が蝶についての関心を薄くしか持っていなかったことをあらわしているように思える。・・我々が身辺の何が美しいかということを思うのは、その民族が発見するよりも、他のすぐれた文化によって、衝撃とともに教えこまされるという場合が多い。・・当初主として漢詩からその美的刺激を受けたために、蝶という平安期の文学に活躍するこの生物は文学の世界にのみとどまり、蝶が造形の世界に登場するのは、安土桃山時代からだとよくいわれる。ついには家紋にまでなるこの生物の造形的おもしろさは、やはり桃山期の南蛮美術の渡来によって刺激されたもののように思われる』(歴史の世界から 司馬遼太郎)。




 

さてシャクナゲのことである。三千株が植えられているという室生寺でシャクナゲが五重塔を背景にしてピンクの花を咲かせている美しい風景写真には誰しも旅情を誘われてしまう。しかし万葉集にはつつじを詠んだ歌が9首あるがシャクナゲを詠んだ歌はないそうである(万葉植物文化誌 木下武司)。

当時の歌人がシャクナゲに関心が薄かったというより、おそらく万葉の歌人たちはシャクナゲを目にしたことはなく知らなかったのではなかろうか。本来自生のシャクナゲは標高800m~1000mあたりに咲く深山の花である。当時の歌人たちにとっては原生の山など道もなければ危険で恐ろしい場所であったであろうから近づくことなど考えもしなかったにちがいない。岩山の栄養分に乏しく他の樹木をよせつけないような厳しい環境がシャクナゲには有利なのか、シャクナゲがそれを好むのか私は知らない。




 

私は大峰山・大台ケ原・京都北山・滋賀の比良山系で見たがよく行く六甲山や金剛山は深山には当てはまらないのか、自生しているシャクナゲを見たことがない。六甲山系の石楠花山と名前がついている山にさえ実際には生えていないのであるから六甲山全体にもないのであろう。ある意味では山の好きな者にとっても貴重な花であり、高嶺の花である。それゆえに、手の届かない女性を「あの人は高嶺の花だ」というのもこの花から来ているのだというが、うなずける話である。




 

司馬遼太郎さんはシャクナゲについて以下のような文章を残している。

『大悲山峰定寺は古来山伏の行場だったから、峰にも谷にも、よくなめした濃緑の皮革のような葉をもつ石楠花の灌木が、あちこちに群落している。修験道というのはこの高山植物を好む。石楠花の自生する山には霊気があるという伝承がその世界にあるらしい』(街道をゆく4洛北諸道)。

大峰山のガイドブックに載っている写真を見たことがあるが、石楠花の咲いている崖沿いの山道を白装束の修験者が過ぎていく風景は司馬遼太郎さんの文章を読んでいるといかにも似つかわしくしっくりしている。若き日の詩人井上靖はシャクナゲの咲いている写真を見て、美しい詩を書いている。「北国」という詩集の中に比良のシャクナゲという題でおさめられている。






 

比良のシャクナゲ  井上  靖

『むかし「写真画報」という雑誌で比良のシャクナゲの写真をみたことがある。そこははるか眼下に鏡のような湖面の一部が望まれる比良山系の頂きで、あの香り高く白い高山植物の群落が、その急峻な斜面を美しくおおっていた。その写真を見た時、私はいつか自分が、人の世の生活の疲労と悲しみをリュックいっぱいに詰め、まなかいに立つ比良の稜線を仰ぎながら、湖畔の小さい軽便鉄道にゆられ、この美しい山巓の一角に辿りつく日があるであろうことを、ひそかに心に期して疑わなかった。絶望と孤独の日、必ずや自分はこの山に登るであろうと。それからおそらく十年になるだろうが、私はいまだに比良のシャクナゲを知らない。忘れていたわけではない。

年々歳々、その高い峯の白い花を瞼に描く機会は私に多くなっている。ただあの比良の峯の頂き、香り高い花の群落のもとで、星に顔を向けて眠る己が睡りを想うと、その時の自分の姿の持つ、幸とか不幸とかに無縁な、ひたすらなる悲しみのようなものに触れると、なぜか、下界のいかなる絶望も、いかなる孤独も、なお猥雑なくだらぬものに思えてくるのであった。』




 

比良の堂満岳の肩から右に連なる尾根はシャクナゲの群生地であり、シャクナゲ尾根と呼ばれている。学生時代この尾根沿いの崖に腰かけて吹きあがってくる風に吹かれながら琵琶湖を眺めていた思い出がある。しかしそのころ樹木への興味もなくシャクナゲがあったかについても全く覚えがない。

比良山は大阪からは比較的遠い。なぜ比良山に登ったのかは覚えていない。そのころ今では廃止されたリフトがあり、苦労もせずに行けたのもあるかもしれないが、鹿児島の田舎から出てきて、友人も恋人もいないころ、青年特有の孤独を詰め込んで登ったかと思われる。その後、この詩を知ってから5回ほど比良山に登った。5月の連休のころ、シャクナゲの花咲くトンネルをゆく気分は形容しがたい。下に琵琶湖を望む場所であり、おそらく詩になった写真はその当たりのものだろうと思われる。


私はこの詩ゆえにシャクナゲの美しさを教え込まれているに違いない。おかげで5月になるとシャクナゲを見に登って行きたくなる。行けなくてもいつでも思い浮かべることができる。滋賀県の県花はシャクナゲである。ひょっとしたらこの詩が郷土の自慢の花として、県花の選定に影響を与えたのではないかとさえ思えるがどうだろうか。






 

シャクナゲは明治以降園芸種が楽しまれるようになったそうであり深山に行かなくても見ることはできる。いつも訪れる長居植物園でもシャクナゲ園という一角に30種800株の西洋シャクナゲが植えられている。しかしその美しい園芸種のシャクナゲを若き日の詩人が見たとしても詩は生まれなかったのではないだろうか。比良のシャクナゲでなければ詩は生まれなかったであろう。

シャクナゲの花だけでは詩にならず、写真に写り込んだ琵琶湖や大峰山の岩山や修験者、五重塔の背景が意味を作る。脳の神経細胞の繋がりの中から意識や心が生じるように、意味は関係性の中にあるともいえる。さらに言えば多くの関係性の中からどういう意味を見出すかは個人にかかっている。関係性の中に美しいイメージや真実を見出し言語化し表現できる人を詩人というのかもしれない。




 

高山に咲くシャクナゲの聖と俗なる「人の世の生活の疲労と悲しみをリュックいっぱいに詰める」という対比のなかで詩が成立している。聖と俗・生と死・明と暗・善と悪、など何でも対立する二項の間に真実があるように思える。聖だけではつまらない。俗だけでもつまらない。私どもは、詩は書けないが詩を楽しむことはできる。音楽を演奏することはできないが聴いて楽しむことはできる。同じように自然が作り出した新緑や紅葉の美しさを楽しむことはできる。山にいてそう思うことがある。楽しむことができることは人間にだけに与えられた実にありがたい恩寵であり、そのことに感謝しながら今を生きるしかない。







 

私は同じ「北国」という詩集の中にある「流星」の詩が好きだった。その美しい詩をここに載せる余裕はないが学生時分その詩情にたっぷりと浸った思いがある。詩のみならず、詩人の感性で書かれた「敦煌」「天平の甍」「氷壁」「おろしや国酔夢譚」等の多くの小説を若いころ好んでよく読んだ。井上靖氏が亡くなった時の葬儀委員長が司馬遼太郎さんであった。司馬さんもその5年後に急逝している。




 

旅に出て出会う美しい景色の記憶はその人だけの個人的な幸福に属する。今回シャクナゲの思索から漂っていく旅の中で、昔読んだ本のいくつかを読み返す機会をもらった。その中で私が最も好きだった二人の作家の関係が詩そのもののような透き通った風景として立ち現れたことは旅に出て出会う美しい景色のそれと同じようなもののような気がした。それがこのエッセイを書いた最大の褒美でもあったのかもしれない。