「倭は 国のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる 倭しうるはし」と謳われるように奈良は四方を山で囲まれている。早くから開けたのは盆地の中心の低湿地ではなく山からの水利の良い山麓であった。盆地の東側の石上と三輪山の山麓を縫うように結ぶ山の辺の道は日本最古の官道であり、ハイキングコースとして昔から有名である。私がよく歩くのは対面の金剛・葛城山麓を縫う葛城古道である。女子大の講義が終わった後、自分の時間があるときは近いので大阪側から一山超えて、車を一言主神社の駐車場に止め、九品寺までの古道を往復する。約3kmである。山の辺の道ほど有名ではないのでほとんど人と会うことはない。
一言主神社は雄略天皇の故事の記載があることから歴史は5世紀以前までさかのぼる。この地の豪族・葛城族の国つ神が祀られて来た由緒ある神社である。司馬遼太郎の「街道をゆく1」の葛城みちの中に・・・「葛城の高丘」という台上にのぼるために石段があり、登りつめると、右手に椋の一老樹があり、左手に樹齢千五百年といわれる銀杏の巨樹が、天に枝を噴きあげるようにしてそびえている。・・・と書かれている。
椋の一老樹と書かれている木は幹周り3-4メートル程ある。いつも葉を落とした頃に見ることが多かったがある夏の日訪れたときに羽状複葉の葉を茂らせていた。あれっと思いその葉をさわってみると私の知っているムクノキの持つざらざらした硬質の葉ではなかった。
神職さんに「これは何の木ですか。」と尋ねると「ムクロジです。」「それじゃこの神社にムクノキはありますか。」「ありません。」「街道をゆくの中では司馬さんはムクノキと書いてあるのですがーー。」「ムクロジをムクと聞き間違えたのか、教える人が間違ったんでしょうな。」私と同じような質問をする人がいるのか、いつのころからか大木の前には「無患子 樹齢650年」という説明板が立てられるようになった。
一方、樹齢千五百年といわれる銀杏の巨樹はとくに黄葉の時は見事である。よく奈良の秋の紅葉スポットで放映される。最近できたのか説明板には「この御神木は樹齢千二百年・・・」と書かれている。年輪を数えられるわけではなく、生きている木の樹齢を推定することは実際難しいものであるらしい。イチョウは昔から日本にあった木ではなく、万葉集・古今集にはその名がなく、中国原産のイチョウが日本にもたらされたのは日本の古文書にある記載からして鎌倉時代と考えられているそうである。確かにイチョウの黄葉は美しく、在ったとしたら古の歌人が謳わなかったはずはないだろう。御神木の樹齢の根拠は一般の人目には触れない社伝に拠ったものかもしれないが、ひょっとすると伝承の樹齢千五百年は5世紀の雄略天皇の故事に引っ張られた数字かもしれない。
一方、江戸期伝来とされていたサルスベリの花粉が池底の平安時代の地層から発見され、学説が覆ったこともあり、今後花粉考古学等の科学の発展によってはイチョウに関しても同じようなことがあるかもしれない。それはそれとしても司馬遼太郎さんが見上げ幹を触ったという思いがあって、この二つの木は「司馬遼太郎さんの木」として常に私の心の中にあり、四季折々どうなっているだろうかと気にもなり、何度でも訪れて見るのが好きな木なのである。心の中に家庭でも波風の立たない恋人のような存在を持てることは幸せなことに違いない。私にとって司馬さんからのありがたい贈り物である。ただしそれは私ひとりだけではなく誰にでも開かれている。
一言主神社から九品寺までの古道は棚田の農村風景の中を行く。日本の原風景を見るような安堵感がある。奈良盆地の中に大和三山が見える。その向こうに三輪山、多武峰や音羽三山の山並みが重なっている。その山々は一度歩いたことがあるので、山々の関係がはっきりとしたオリエンテーションとして掴める。これらの山々に囲まれた奈良盆地の中にある畝傍・耳成・香久山の大和三山のぽこっとした土饅頭みたいな山はどこにもありそうに思えるがあんなに美しく思えるのはなぜだろう。それはその風景の中に万葉以来のいや、もっと邪馬台国以前からの歴史や文学が埋もれているからである。ここでよく知っている歴史上のひとびとが確かに息づいていたのである。いつも見慣れた風景に何度でも感動できればそんな幸せな人生はないだろう。文学は風景をさらに美しくしてくれるものである。阪大の教養の時、万葉学者の犬養孝先生の熱い思いのこもった万葉集の授業を聴いたおかげでもある。司馬さんは自分の人生を退屈させないために教育はあるんだと子どもに諭すように教えてくれている。その言葉が実感できるのである。
晩秋から冬にかけては道端の農家の門の軒先に料金入れの小さな缶と一緒に大和特産の山芋が籠に置いてある。大和いもともいう。奈良の伝統野菜である。自然薯のように棒状ではない。大和いもは、表皮が黒皮で、形が整って凹凸が少なく、肉質が緻密で粘りが強いのが特徴である。一個三百円くらいで、いつも二~三個買って帰り、とろろに摺ってもらい酒のあてにするのが楽しみになっている。ちょうど土の中から取り出す大きさや色・形がNHKの番組ヨーロッパの街角という旅行番組で見た高級きのこのトリフに似ている。いかに高級品であるかの例えに番組では最高の値段が三千二百万円で中国の富豪に落札されたと話題にしたシロモノである。幸せの本質は大それたものではなく身近なものに感動できる小さな幸せの積みかさねの中にあると分かるような年齢になった。トリフなど食したこともなく、そして負け惜しみを言う必要もないが、とろろに摺った大和いもの方が富豪の味わう三千二百万円のそれよりも芳醇であろう(たぶん)。 農家の軒先の無人販売はいかにも日本的であり、外人を案内するにしても平和で他人を信用する社会の誇らしい風景の象徴でもある。ある中国人を案内した時には「お金と品物ごと無くなってしまうよ」と言われた。
葛城族の末裔だろうか、白壁を持つ立派なつくりの農家の家々や道端の野の花を見ながら歩いていくとほどなく九品寺に着く。浄土宗のお寺であるが時々本堂から木魚の音が響いているくらいいつも静かである。南北朝時代に南朝方の楠正成に味方して参戦した兵士たちが自分の身代わりに奉納したと言われている千体以上の石仏が参道の道端に風化しながら並んでいる。それほど多くの兵士を動員できるような土地柄ではないのでおそらく多くは父母や子どもの供養を祈って奉納されたものもあるに違いない。秋はその上を覆う紅葉が美しい。名のある人もなき人も今や無常という時空の優しさに包まれて鎮まっている。こんなところで片隅でもいいから子どもの頭ほどの丸い石ころを墓標にして眠ることが出来たらいいだろうなと思いが自然に湧いてくる。浄土宗の元祖ともいえる源信がこの近くの当麻の生まれであるのを知ったのは最近のことである。源信の「往生要集」から法然・親鸞・一遍の浄土宗の譜系が続いてゆく。浄土宗の寺があるのはその関係かもしれない。
ある日のこと、九品寺の門前に住職による月替わりの偈が掲げられてあった。「つまずいて転んで、腹をたてる人、悟る人」この偈はこのエッセーの結論とは関係はない。ただこのようなものも風景の中の舞台装置のごとく、旅人を立ち止まらせ、ひと時の時間にも深みを与え、さりげなく葛城古道の風景の中に、品よく調和し溶け込んでいるように思える。風景とは自然のみならず人文との合作に違いない。たおやかな風光とゆったりとした歴史の時間を含みながらこの道は古代から延々と続いている。ミヒャエル・エンデは時間泥棒「モモ」の中で「光を見るためには目があり、音を聞くためには耳があるのとおなじに、人間には時間を感じとるために心というものがある。そして、もしその心が時間を感じとらないようなときには、その時間はないもおなじだ。」と書いている。この道はリラックスして自由でとらわれのない心で、たゆたう時間を受け止めながらゆっくり歩くのがいい。何回も訪れているが、私にとって心やすらぐ小さな「哲学の道」なのである。
P.S.:ある日訪れたときにたまたま庭で出会った神職に木の樹齢の根拠について尋ねたことがある。無患子の木を切った時に父親である先代の神職が年輪を数え約600年まではわかったが真中が洞になっておりそれ以上はわからなかったということである。それで説明版には650年となっている。イチョウの方は社伝などの記録はなく推定だということであった