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マリア保育研究所|

第一章 樹木への旅

第19話 再構成 

多様な抗体が離れた場所にある遺伝子が選ばれ再構成されることによってできるという仕組みを科学的に証明したことでノーベル賞をもらった利根川進博士によって、DNAらせんからなる遺伝子の固定的なイメージの世界からダイナミックな遺伝子の世界が可視化され、今日の遺伝子研究が発展した。血液腫瘍学の分野でも白血病細胞の遺伝子再構成を見ることでoriginやclonalityについての理解が深まった。今でこそ常識化されたが、白血病の診療に携わっていたその当初、このような基礎知識のない状況でrearrangement(再構成)やsplicingなど知らない言葉の混じった講演を聞いて、何のことやらさっぱり理解できなかった思い出がある。遺伝子は動くということから、高名なM先生が「自分も論文を書く時、以前の論文のコピーの一部をはさみで切り貼りして秘書に渡していて、遺伝子と同じことをしているよ。」といって笑わせてくれた。このようなエッセーもいろんな人の考えに自分を重ね合わせ、再構成して出来上がっているようなものである。




 

新しい年号令和は大宰府に左遷されていた大伴旅人の梅花の歌三十二首の序文、「初春令月、気淑風和・・・」から引用されているということである。よく考えてみれば令和という新たな年号も遺伝子再構成と同じような方法で作られているように思える。漢字というものは再構成には便利な文字である。子どもの名前もこの頃は佳字を組み合わせたキラキラしたものが多くなった。親は親なりに思いを託しているのだろう。私も旅行先のベルギーでホテルの従業員に請われて、雅字を組み合わせた名前を一晩真剣に考えて書いてあげた覚えがある。一方、司馬遼太郎さんは「中華思想においては野蛮人の国名や人名を漢字表記する場合鄙字を用い好字を用いなかった。」(壱岐・対馬の道 街道をゆく13)と書いている。何千年もの歴史を持つ中華思想は人々の意識の中から簡単に消えるものではなく、現在でもいまだに続いているように思える。過剰な自尊心は他のみならず自分をも害するものである。西暦の他に、元号を持ち二つの時間軸を生きることができることは今や世界の中で日本人だけが持てる幸せである。そのことは日本人の人生を豊かにしてくれるように思える。元号がその時代のイメージや雰囲気さえも作ることを知っているのは当の日本人だけであろう。それ故に新たな時代への願いが込められた元号への関心は国民的な広がりを持っていた。令和という時代がいい時代であることを祈りたいと思う。 連休中、大宰府の令和ゆかりの神社前の道路には早朝から夜まで長蛇の列が絶えなかったそうである。私は令和が始まって3日目に十数年ぶりに吉野の喜佐谷を吉野に登った。喜佐谷の上り口に大伴旅人の次の歌が掲げられている。大宰府にいた時に遠い都を思って作った歌である。




 

滝という巨岩奇岩が両岸に迫り、瀬と淵が交錯する景勝地である。この地に離宮が作られ、景観のみならず宗教・政治的な意味もあったのだろうが、天武天皇・持統天皇等がしばしば訪れている。行幸にともなって多くの大宮人や万葉の歌人も訪れたであろう。私は大伴旅人が景勝地の宮滝よりもこの象の小川を見たいと謳ったそのことになぜか心をひかれるのである。象の小川は美しい渓流に違いないが、山歩きをしている者にとってはどこにでもある様な谷川である。大伴旅人には風景に重なる深い思い出もあったのであろう。死ぬまでもう一度見たいという象の小川が私に歌人のそれと同じように見えるわけではない。風景とはそれぞれの人にとっての風景なのである。




 

以前雑木林の美しさを書いたが、山を案内した時、ある外国人はブッシュと呼んでたいして興味を示さなかった。子どもたちを連れて行っても関係のない話をしゃべり続けていて、風景を味わっているようには思えない。私自身、祖父の家で過ごした子どもの頃の周りの松林は歳を重ねて美しい風景として思い出されが、子どもの頃、美しいと思っていたか覚えがない。人にとって、風景や美はどのように認識されるのであろうか。生物学者でエッセイストの福岡伸一氏は「動的平衡」の中で『進化の過程で私たちの脳にはランダムなものの中にできるだけ法則やパターンを見出そうとする作用が加わってきた。しかし一方ではそのような作用は実はほとんが空目なのである。客観的な世界などない。絶え間なく移ろう世界を激しく動く視線で切り取って再構成したものが私たちの世界である。私たちは自ら見たいものを見ているのだ。』と書いている。風景も再構成されて認識されるのだという。客観的なものではなく、主観的なものだという。だから誰でも同じように見えているわけではない。木の名前を覚えるだけでも風景は違って見えるものである。風景の背後にある人文の歴史を知るだけでも違って見えるのである。室生犀星は5月と題する四行詩で「悲しめるもののために/みどりかがやく/くるしみ生きむとするもののために/ああ みどりは輝く」と詠んでいる。逆に言えば物事の美しさがわかるには、人生の中で喜びのみならずむしろ多くの悲しみを蓄積しないといけないのかもしれない。風景も知識や経験や悲しみなど感情等を相手にして脳の中で再構成されるということであろう。子どもが私と同じように風景を味わっているように思えなくてもそれは仕方がないのである。ものごとに意味が与えられ、認識は作られていくように、美もまた再構成によってできたパターン認識に意味が与えられ、個人の中で主観的な美になるということになるのだろう。美に限らず、ものが見えるようになるにはそれを教えてくれる先達のような人が必要なのである。意味を教えてくれるのは教育である。あるいは教育とは再構成に必要な酵素(recombinase)のようなものかもしれない。風景が美しく見えるということは自分にとっては脳の喜びである。司馬遼太郎さんは著書「風塵抄」の中で『君たちは自分の人生を退屈させないように、さらには人を退屈させないように教育というものがあるんだよ』と教えている。




 

最近放映された「NHKスペシャル-遺伝子」を見て、遺伝子研究はここ10年で急速な進歩があり、DNAから顔を復元できるまでになっていることを知って驚いた。 司会者の遺伝子研究者の山中教授でさえもこの先10年がどうなっているか想像もつかないということであった。考えてみれば遺伝子のみならず、文化・思想・ビジネス・テクノロジー等人間の精神活動は違う価値や別の物を再構成することで成り立ち発展してきたように思える。再構成という視点から見ればAI(人工知能)等の発達と相俟って組み合わせの可能性は無限である。 多くは選ばれなかった元号のようにabortiveに終わるものもあるだろうが、今後いろんな分野で想像もできないくらいのスピードで世の中の事象が移り変わっていくのではないだろうか。急速な変化で格差の拡大や既存の制度の不具合など社会の歪みも大きくなってしまうこともあるだろう。グローバルな問題も国家を超えて個人にまで押し寄せてきそうな予感もある。




 

歳を重ね、高校時代の古稀の会があるという昨今(もう55人いたクラスの10人は亡くなってしまった)、これからどんな世の中になっていくのか期待する一方、永らえて大災害等も含め、見なくて済んだものを見ることもあるかもしれないという思いもある。ただ、山へ行けば、四季折々、森や林が変わらない姿で待っているということに心が和らぐのである。