司馬遼太郎さんは松の作る風景をいくつかの紀行記の中で次のように書いている。
「われわれの故郷についてのイメージの底にはかならず松が作る景色があるように見える。」(街道をゆく7明石海峡と淡路みち)
「海は松原越しにながめるのがもっともいいという「古今」「新古今」以来の美的視点が牢固としてわれわれの伝統の中にある。この点気比の松原をもつ敦賀は日本のどの地方よりもめぐまれている。弓なりの白沙の汀にざっと一万本の松が大いなる松原をなしている景観というのは、ちかごろの日本ではもはや伝統の風景というより奇観ではあるまいか。」(街道をゆく4気比の松原)
私にとっても故郷は松の作る風景と切り離せない。 私は鹿児島県の弓を引く吹上浜の傍で子ども時代を過ごした。私が幼いころ亡くなった母の実家があったからである。小学生時代の春休み、夏休み等、ほとんどをそこで過ごした。東シナ海を望む砂丘に防風林として植えられた松林は大きく育っていて、人々の暮らしと密接に関係していた。
正月前の決められた日には村の人々が松林に総出で入り、松葉や枯れ木を集め、リヤカーに山のように積んで持ちかえり、各々の一年の燃料にしていた。清められた松林では、松露がとれ、戦時中に松脂を採取したV字の傷が幹に残っていた。高校時代だっただろうか、日本中に松くい虫の被害が広がり枯れてしまった大きな松が切り倒されるのをわが身を切られるような悲しい思いでみたが、松林に囲まれた祖父の家で過ごした子ども時代の風景はずーっと記憶の中に残っている。
子どもの頃には当たり前だった風景が年を経るにつれ記憶の中ではますます美しくなるのである。だから私は松林を歩くのが好きである。 司馬遼太郎さんは松林の様子を「赤松はその点仲間とのあいだに距離を置き、密をきらい疎を好み地面まで日がとどき風も通す。遠望してもあかるい。」(街道をゆく10羽州 佐渡)と書いている。
私の中の松林の風景はその通りで、まさに松の本質を「密をきらい疎を好み」という一言で文学的に表している。このような文章を反芻しながら風が透きとおる様な松林を歩くのは気持ちのいいものである。何よりもその香りが心地よいものとして脳にしみついていて、故郷を思い出させてくれる。大阪では長居植物園に100m程の間ひとむらの松林があり、故郷を思い出すために時々訪れる。ふるさとのなまりを上野駅に聞きに行った啄木の心境に似ているかもしれない。四季折々の松林を歩いてはじめて香りの強弱に気づくことがある。3月になると松の香りが強くなる。冬から目覚め木が活動し始めているためであろう。
フィトンチッドを嗅がせるとそれだけで血圧が下がり、脈拍が減るという高血圧専門の医学部教授の講演を聞いたことがある。ストレスの指標であるコルチゾールも下がるそうである。森を歩くとさらに良いらしい。一方同じグループに街中を歩かすと血圧は若干減るが脈拍は上がるということである。このように木々は人間の自律神経系への好ましい影響を与えてくれる。司馬遼太郎さんは人に安らぎを与えるのは樹木だけだと書いている。古来日本人は精神や身体への影響を体で感じていたが現在はそれが科学的に証明されるようになった。逆に言えばそのような方法でしか身体や脳が分からなくなってきているということかもしれない。
作家のリービ・英雄氏の言によれば何歳になっても大人の芸術家が子ども時代の風景を捨てず、創作活動の核にするという。そのことはなにも芸術家に限らず一般の人にも当てはまることと思われる。心の中にそのような故郷を持ち続けるということは幸せなことである。知らず知らずに心の根っこのようなところで自分を支えてくれているような気がする。そういうことを「地霊の加護に守られる」というのかもしれない。 私に限らず松は日本人の心に沁み込んでいるように思える。学者によれば江戸時代に、各藩とも防砂や殖産の為に、塩害に強く貧栄養な立地条件でも生存できるクロマツ林を成林させたので「白砂青松」と、日本人にとって見慣れたマツ林の起源は、このあたりにあるとしている。
一方、紀貫之が京へ帰るときに書いた土佐日記には「かくて、宇多の松原をゆぎすぐ。その松のかずいくそばく、幾千年経たりと知らず。もとごとに波うちよせ、枝ごとに鶴ぞ飛びかよふ。」という風景描写があるが、この風景を想像するだけでも美しいし、よく書き残してくれたものだと感謝したくなる。学者の言はさておき、平安時代をさかのぼる昔からこのような風景は日本中いたるところにあふれていて、それが日本人の心や美意識を育んできたのではないかと信じたい気持である。
このように松の作る風景は私たちの心象として日本そのものであるようである。それがよく分かるのは最近新聞で読んだ元ソ連に抑留されていた人の話である。船上からみた舞鶴港のそばに生えていた一本の松が忘れられないという。シベリアで何回も行き先をだまされ過酷な苦役が待っていた経験から、その景色にようやく帰国を実感したということである。シベリア抑留者で死亡した人の名簿が発見され一人一人の名前が新聞一面に載っていた。50万人が抑留され過酷な労働の中で5万人が死んだという事実は知っていたが、単なる数字ではなく個人の名前が出ていると、この人達に続く多くの人々が生まれることなく途絶えたことを生々しく意識せざるを得なかった。私はシベリア抑留から生き延びて帰ってきてくれた父から戦後団塊の世代の一人として産声を上げた。ひょっとしたら生まれることなく途絶えたその中の一人になっていたかもしれない。あるいは戦争や、抑留がなかったら私は私でなかったかもしれない。私の関係した人々もいなかったかも知れない。まさにカオス理論の世界と同じである。個人的にも、社会的にも生きていく中で私たちは多くの可能性を消してきている。我々はこのような消滅した可能性という無数の素粒子に取り囲まれて生きているのかもしれない。松林を歩くと故郷と生い立ちを思い浮かべそんなはるかな気持ちになる。
松を見て上記抑留者と同じような思いを司馬さんも経験している。「敗戦の前に朝鮮半島を南下して釜山まできたとき、いままでの大陸風の淡いみどりが、この半島の南岸町で急に濃くなったことに驚いた。気づいてみると、釜山の西郊に赤松の林があり、この色彩が、溜め息がでるほどに佳かった。― 松でおおわれた故郷がもう一衣帯水のむこうに横たわっている、という感動だった。」(司馬遼太郎:街道をゆく7) 私もこの本を読んでいたこともあり、韓国慶州の仏国寺を訪れたとき、境内の裏山に群生している勢いのある赤松の木々の美しさに心が動いた。各々の木々の枝ぶりがよく、幹の赤膚と葉の緑とがお互いを美しく引き立たせ、静寂な寺院をさらに清らかにしているようだった。それは子どもの時に見た松林に囲まれたふるさとの風景や、能舞台や大和絵に書かれた絵によって日本人としての心の中に埋め込まれた美のイメージそのものであった。戦時中という感性の研ぎ澄まされた極限状態での若き日の司馬さんの心の感動には比べようもないが、同じ波長の響きに共鳴する思いだった。日本人として松の美しさを感じられることに感謝したくなったが、果たして松を身近に見たこともないような現代の若者や外人も同じ思いがするのだろうか。ひとつの脳科学のテーマのような気がした。最近の脳科学はITの発達と相まって進歩が著しいが、風景に対する美意識は子どもの時から育まれた後天的なものなのか、松林が絶対的な美しさを持っているものか知りたいものである。そのようなテーマも研究可能な時代になっているのではないだろうか。ぜひ教えてほしいものである。
自分の経験からすると子ども時代の記憶は歳を重ねると発酵して心の中にいい財産になるということである。子ども時代の思い出は老年になった時のプレゼントである。ドストエフスキーは「カラマーゾフの兄弟」の中で「人間にとって親の家で過ごした幼年時代の思い出ほど尊いものはない。」と書いている。洋の東西を問わず、時代を問わず、それは真理なのであろう。私の子ども時代を振り返って、みんな貧しく、今の時代の便利なものは何も無かったがなぜかしら豊かだったなと思う。豊かさの定義はいろいろあるだろうが、本当の豊かさとは多様性があり、可能性にみちていることだと思う。今の豊かな時代のすべての子どもにはそれぞれいい子ども時代を持ってほしいし、親にもそのことを意識してほしいが、実際は子育て時代の親は日々の生活で精一杯である。この歳になってわかるが、小児科医の私でもそうであった。子ども時代の本当の貴重さについての思いが発酵するには、終着駅が視界に入り、自分の人生を振り返る歳月という時間がかかるもののようである。