小さなグループに夫婦で仲間に入れてもらって台湾旅行に行ってきた。よくある囲碁ツアーには参加したいと思っているものの、まだ縁がない。今回のグループは囲碁とは関係もなく、私はポケットに詰碁の小冊子をしのばせただけであった。バスの車窓からみた雑然とした街並は少年時代にみた風景に似て懐かしい気持ちだった。
縁台で中国象棋を囲んでいる老人達もいた。そして赤や緑を主体にした看板の多い街並は確かに私の憧れていた中国だった。初めての夜、私は呉清源九段に五子局の指導碁を打ってもらった夢をみた。中国へ来たという興奮が眠った脳を刺激して中国の生んだ大天才を登場させたのであろうか。
盤上の石はまだまばらであったからおそらく四ー五十手ぐらいであっただろう。右辺で白の切りがはいったところでハッと碁の深淵に触れた感じがして夢は終った。私は道策や秀策と同様、囲碁史に不滅の名を残すであろう大天才に指導碁を打ってもらったという余りにも縁起の良い夢を胸に大切にしまっておきたいような、人にいいふらしたいような妙に気持ちのいい気分でその後の旅の中にあった。
三日目は故宮博物院を見学した。精巧に作られたひとつひとつの璧(ぎょく)の宝物に工人達の途方もない時間が凝縮されて閉じ込められていた。私は滑らかな光を放つ宝物の山に中国の歴史の重みを感じるとともに、一方ではこれらの宝物に囲まれて日々を過ごした皇帝の寂しさを思った。それはあの夢のせいだったかも知れない。皇帝はヒスイの石で碁を打ったであろうか。愛すべき碁仇きはいたであろうか。形ある宝はなくとも私達には「笠碁」の楽しさがある。料理もうまかったし、いい夢もみせてもらった。思えば、台湾の旅は私に碁は宝であり、それ故にもう少し一手一手、一局一局を大切にすべきであるということを再認識させてくれたような気がする。
旅は終わり私はまた日常の中にいる。今の私の贅沢な望みはもう一度あの夢の続きをみたいこと、その棋譜を採りたいこと、そして夢の中で碁の深淵に触れたその御利益を得て碁仇きの上に高く飛翔したいということである。確かに夢のまた夢ではある。