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マリア保育研究所|

第十話  「宗像 修三」 




宗像修三




















 

人間には己を中心にした身近な世界の思考に長けたものと、人を動かしたり、大きな世界を考えることに長けたものがいる。高校や大学の学力として一般のテストや入試で人間のスケールを量る手段がない。人間のスケールの大きさの判断はわずかに人を見る目を備えた人物による面接という場面のみがそれを可能にしているかもしれない。世の中に出ればそのような能力が人間の一番の推進力となる。彼、宗像修三は高校からそのような人物だった。胸が厚くラグビーボールを抱えて疾走する姿が目に焼きついて残っている。





高校時代のクラスの歌がそのころにはやっていた勝呂誉と大空真弓主演のテレビドラマの主題歌の「青年の樹」であった。この歌のイメージがあのはつらつとしていた彼にぴったりであるような気がしていた。カラオケでこれを懐かしんで歌うと彼をいつも思い出すのである。中学時代、生徒会の会長もやり、弁も立ち、見識のレベルからすれば私を始め、周りの生徒は子どもみたいであった。鹿児島は幕末から明治維新にかけて多くの人材を輩出した。そのような人材の基準は小賢しさではなく包容力をもつ腹の太さであった。




時代とともにそのような人物の輩出はなくなったが、私が思うにその譜系を継いでいるのが宗像修三であったように思う。自分で言うのもおかしいが高校時代、私など先生の言うことをよく聞く模範生であった。一方彼は後で知ったことであるが、禅宗のお寺に出入りしていたようである。その分医学部に進学するには浪人を2年経験することになったが浪人時代を金閣寺ですごしていた。目標に向かって勉強一筋という当時の一般的な受験生のそれではなかった。同級生として親しかったわけではなかった。ただ彼が私と同じ小児科を選んだということは意外だったし、(外科に行きそうなタイプに思っていた)それで遠くにいながら注目はしていた。小児科医になってからの広範囲の活躍は常人の域を外れたものであった。鹿児島こども病院を設立し、離島やネパールなどの医療援助も行っていた。





医者でなくとも、ビジネスやもっと大きな政治の世界でも大きな仕事をやってのけたであろう。そんな彼が肺癌で58歳という若さで早くに死んでしまったのである。残念というほかはない。1周忌に出席したが、そこで配られた彼の追悼集(夢のつづき)には彼の人物の大きさを示す多くのエピソードがつづられていた。死の数日前においても胸水がたまり、息苦しい中でも他人を笑わすユーモアを持っていたこともつづられていた。人並みはずれた活躍の引き換えに多くのストレスもあったのであろう。ストレスが活性酸素を生み、それががんの引き金になることは医学の一般的な常識である。彼が亡くなってはじめて分かったことがある。私(たち)は彼のような人と過ごしたというなんとすばらしい高校時代を持っていたのだろうと。